丸正の歴史

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丸正織物は戦後、
初代大城幸正と大城敏が
ゆのし業からスタートしました。
ゆのし業の傍ら小学生から織に携わっていた
敏が織物を始めました。
丸正の名前の由来は反物に入っている
口織(ネーム部分)の丸の中に正の字から。
正は初代幸正の一字をとっています。

二代目大城政則は故知念幸助に師事、
熟練した高度な技法が必要とされる
古典柄を得意とする括り職人として、
大城友子は丸正の特徴のひとつである​
瀟洒な印象を生みだす​配色と、
現在は定番となっているロートン織から
花織の可能性を拓げ、
丸正の多彩な織りの礎を
それぞれに築いてきました。
現在は三代目として大城幸司が
代表を務めています。

  • 初代
    大城 幸正

    大城 敏

    大正23年 織物に従事

    昭和63年 琉球絣伝統工芸士認定

    平成2年 沖縄総合事務局長表彰産業功労賞

    平成17年 沖縄県優秀技能者表彰

    平成21年 第9回南部文化賞受賞

  • 二代目
    大城 政則

    昭和43年 織物に従事
    (デザイン、括り)

    沖縄総合事務局長表彰役員功労賞

    大城友子

    昭和53年 織物に従事

    日本伝統工芸士会作品展入賞

    伝統的工芸品産業功労者等沖縄総合事務局長表彰

    平成17年 琉球絣 製織部門 伝統工芸士 認定

  • 三代目
    大城幸司

    第90回、第91回、第92回、第93回国展入選

    令和2年 琉球絣 染色部門 伝統工芸士 認定

南風原の琉球かすり
花織について

7世紀頃に描かれたインドのアジャンタ洞窟の壁画に、絣織物らしき布を身にまとっている人々の様子の絵が残っており、絣織物の技術はかなり古くからあったと思われます。
やがて、その絣織物の技術がアジアの国々をはじめ世界の各地に伝播していったと考えられています。
絣織物の技術は特にアジアの地域に定着し、各地域の独自の模様などが生み出されてきました。
沖縄へは14〜15世紀頃に伝えられたといわれています。

琉球王府時代になると、織物は沖縄の各地で盛んに織られるようになりました。
特に首里、那覇をはじめ、宮古・八重山や久米島の島々では王府に納める貢納布として織られていました。
そのころの貢納布は、首里王府の絵師が描いた絣デザイン集の「御絵図帳」を基に、島の女性達が厳しい製造工程に従事して織物にしていました。
この頃、絣デザインや染色技術の織物技術は高度に発達しました。

王府時代に、一般の人たちが着用できる着物の柄は、無地か縞柄に限られていました。
明治に入ってからは、商品として市場に出るようになり絣柄の着用も許されました。
その頃の織物産地は、那覇の小禄や泊、豊見城などが盛んでした。
南風原では、これらの産地との交流を通して、しだいに技術が向上していきました。

南風原で織物の生産が本格的になったのは、大正から昭和はじめのころです。
沖縄県では、明治の頃から小禄や島尻の女子工業徒弟学校で多くの織り子を養成し、大正に入ると南風原でも村立女子補習学校で織物指導が行われていました。
また、那覇の泊から絣織物の技術者が南風原に移り住み、地元の人達と技術の交流がさかんに行われました。

大正3年、南風原の女子補習学校に、熊本県から金森市六氏が招かれ、主にヤシラミ花織、紗紋織、絽織、ロートン織、八枚花織などの組織織を指導し、南風原産地に特筆すべき功績を残しました。南風原では、織物技術者が増えるにしたがい、いよいよ織物の産地として基盤を固めていきました。

昭和5年(1930)には、織物検査を強化し品質の統一を図るとともに、原料購入の一括化、生産・販売を強化するため、南風原織物組合が結成されました。
また、規模の大きな組合工場が照屋と本部に設立され、宮平には金森工場、山川には秋山工場と民間の工場も設立されて、県内最大の絣産地に発展しました。
ところが、第二次世界大戦がおこり、織物資材の供給が止ると、織物工場も閉鎖されました。
南風原は激戦地と化し、戦争によって多くの織物技術者と生産設備を失うことになったのです。

南風原産地は、戦争によって壊滅的な打撃を受けたにもかかわらず戦後まもない昭和24年(1949)ごろになると、織物産地として再びその息吹を取り戻し始めました。
米軍の占領下で軍製品の中から糸や染料などさまざまな織物材料をかき集め、また、高機や 織物道具を復元し、織物生産の基盤づくりに着手しました。
船舶用のロープや靴下までも解いて糸にしたり、カーボン紙を集めて染料にするなど、 知恵と工夫を重ねました。

織物の産地として復興した南風原では、生産を強化するため、原材料の一括購入、販路の拡大に努めました。
また、道具や技法にも工夫が加えられたほか、電動機械などを積極的に導入しました。
1972年の本土復帰を境にして、沖縄の工芸品が全国に知られるようになり、南風原の織物も生産が増えていきました。
手仕事の伝統技術に対する一般の人たちの理解も高まりつつあり、このため、南風原産地では、人々の好みにあったデザインの工夫や品質の研究をしながら、生産の強化を図ってきました。

出典元 : 琉球絣事業共同組合
技術教本『南風原の織』・2011年発行

南風原の歴史とともに、
丸正も歩んできました。
織物が生活に根付く街・南風原では
現在も多くの工房が切磋琢磨しつつ
織物生産に励んでいます。

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